「
九段坂下クロニクル
についての覚え書き/後半」
(
前半よりつづく)
こうして時空を移動するという設定もページ数も削らなければいけなくなった私は、結局「探偵」「探偵助手」「泥棒」のお三方にご退場いただくこととなりました。では誰が主人公になったのかというと「探偵事務所に依頼に来た依頼人」です。私は提出した3本の「想ひ出盗人」のネームのなかに3人の依頼人を登場させていました。3人はそれぞれ「現在」「戦中」「昭和初期」の記憶を盗まれていました。他の方々の漫画と時代がかぶらない方がいいということで、そのなかの「戦中」の記憶の持ち主、幸子さんに主人公になっていただくことになりました。
九段坂下クロニクル「此処へ」より。幸子、殿村、速水、次郎、九段下の景色、錦鯉。
正直に告白すると、戦中の話を描く事が決まったときは嫌だなあと思いました。絵柄が地味だし、つらいし、もんぺをはいた女子はいまいちかわいくないし、こんなことを言ったらしかられるし、そもそもたいして詳しくもない私なんかが描いたら物知りな方々につっこまれまくるのでは、と考えたのです。しかしビビって描かずに聖域にしてしまうよりはツッコまれながらも描いた方がずっと価値があるだろうと思い直しました。
ともかくまずは知る事だと思い戦争体験記を随分読みました。そうすると、いままで私が持っていた戦中のイメージは固定観念にとらわれすぎていたということがわかってきました。考えてみればあたりまえだったのですが、人々の体験は大変バラエティーにとんでいたのです。自作の鉱石ラジオでこっそり米軍のラジオのジャズを聞いている人もいれば、特攻隊の基地でお茶を点てる人もいる。おはぎやワッフルを食べている人もいれば、お米をチケット代わりにベートーベンやモーツァルト(ドイツの音楽なので敵性音楽ではない)をひいている人もいる。ちなみに当時の女性の多くも、もんぺはやだなあと思っていたみたいです。
そして私にとっていちばんの驚きは玉音放送でした。しばしば戦争体験記では、何の説明もなくいきなり玉音放送を聞いたため内容をさっぱり理解できず(そもそも声の主が誰かもわからず)、その後にあったNHKのアナウンサーの解説で初めて日本が戦争に負けたことが理解できた。というような記述が出てきます。だったらそのNHKのアナウンサーの解説を聞いてみたい。という事で、ネットでそれをさがして聞いてびっくり。和田信賢アナウンサーの声は私がよく知っているNHKのアナウンサーの方々の声と驚くほど似ていたのです。放送局ごとにアナウンサーの声は特徴がありますが、ここまで完璧に代々受け継いできたものだったとは。しかも聞き取りやすいだけでなく内容もわかりやすい。1945年が急に近くなった瞬間でした。
というわけで、色々な人がいたわけですし、はるか昔の話でもないのだから考えすぎないぞ、とひらきなおった私は、幸子という主人公に好き勝手にやらせることにしました。
幸子は戦争中にもかかわらず個人の幸せを求める女性です。個人の幸福と国家、社会、家族等の公共性との兼ね合いは現代において明快な答えのない複雑な問題です。もし幸子が現代にいたとしてもある種の批判はまぬがれないでしょう。そんな彼女が戦中にいる、つまり個人の幸福と国家、社会、家族等の公共性との兼ね合いに明快な答えがあたえられている時代に彼女を生かす、この事がこの物語の最も大きな魅力であり困難でした。しかし彼女はほっておいても好き勝手やってくれました。
巻末の植田実先生のビルについての解説にもある通り、九段坂下の例のビルは関東大震災後に復興の一環として計画され、太平洋戦争を生抜きました。運命をすべて自分で切り開いてきたと思っている幸子がビルとともに叶わない運命に取り残されたとき、彼女はどうするのか。
そもそものネームの「想ひ出盗人」に出てきた幸子は幸せを求めつづけたために最後まで幸せにはなれませんでした。しかし「此処へ」の中の幸子には可能性があたえられています。
最後の数ページの台詞が決まったとき、私は彼女が可能性をつかんだことに気づきました。今はただ「現在だろうが過去だろうがあたしは幸せになるのよ。」と騒ぎだしそうな彼女に敬服するのみです。
- 2009/11/28(土) 18:28:00|
- 長文
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