人間は追いつめられると何かになれることがあるようです。
運良く大学在学中にデビューできたものの、その後は数年アシスタント中心で連載も取れず、30までに連載できなかったら違う職業に就かないとなと思っていた頃、師匠経由で科学ムックに短期連載しないかというお話をいただきました。科学ムックに載るという事で「科学モノの漫画」という依頼でした。
迷える朱戸はもちろん飛びつきました。でも「科学モノの漫画」ってなんだ?何を描けばいいんだ?朱戸は当時、特に科学に詳しい人間ではありませんでした。本屋さんの科学コーナーに立ちよるタイプの人間ではなかったのです。

ともかく「科学」に詳しくならなければジャンルも決められません。朱戸はまず頭のいい友人達に相談(幸い何かの間違いで進学校に通っていたので自分より頭のいい友人にはことかきません)、友人経由で物理学や天文学、気象、機械工学、生物学などを学んでいた方を紹介してもらい取材をしました。しんかい6500のコックピットも見せてもらいました。(今まで漫画に生かせなくてすみません…。)本屋さんの科学コーナーにも足しげく通いました。多分漫画家人生で初めて、本格的な取材というものをしたのです。
ところが、楽しく取材をしているうちに「科学モノではなく医療モノにしてほしい」という話になりました。そこで今度は医師をしている頭のいい友人達に協力してもらい取材を開始、外科の先生はガテン系だとか、オペナースさんはいつもマスクをしているので目のまわりのメイクだけ気合いが入っているとか、面白いネタをたくさん聞かせてもらいました。
そしてそのネタをしっかり盛り込んで病院を舞台にした割とのほほんとした医療漫画を描き上げました。中々良い出来だったと思います。…しかし様々な事情で完全なるボツになりました。
普通の漫画雑誌ならこれでこの仕事はおしまい、他の漫画家さんの漫画が誌面に載るところですが、幸いにしてこの仕事に朱戸の替わりはいませんでした。ムックの発売が刻々と近づいている中、朱戸はそこから5本違うジャンルの「医療漫画」のネームを描きました。ラブコメ系、コメディ系、日常系、2ページほどで完結するネタを連作する系…。その中にあったのが「
Final Phase」の原型となるネームでした。
学生の頃少し背伸びをしたくてカミュを読んだりしていました。その中で一番面白かったのが「
ペスト」でした。ストーリーが面白く印象的なキャラクターがたくさん出てきます。そして感動的なセリフも。あんな話をいつか描きたいなと思っていました。追いつめられた朱戸はそれを思い出したのです。
あわてて感染症の勉強をしネタに使えそうな感染症を決め、ネームを切りました。勉強開始から1話のネーム完成まで1週間でした。
結局「Final Phase」が採用になりました。

「Final Phase」は「ペスト」が元ネタという事で主なキャラクター配置は「ペスト」に倣っています。名前もネタにしました。主人公は性別を変えましたがベルナール・リウーの名前から鈴鳴涼子(ベル鳴ーるですよ…)、パルヌーは少し苦しいですが羽貫琉伊、ジョン・タルーは樽見潤といった感じです。以前から気になっていた湾岸地区にもう一度写真を撮りに行き、準備万端、短期ですが人生初の連載の第一話の扉となる見開きを描いている瞬間、グラっと来たのです。東日本大震災でした。
それから数年後、イブニングの編集者さんからご連絡をいただき仕事をご一緒する事になりました。どんなネタがいいかなという話になった時、「Final Phase」の拡大版を描いてみないかというご提案をいただきました。
正直迷いました。当然ながらすでに描いた漫画をもう一度描くのは漫画家としてどうなのかな、などと考えました。しかし「Final Phase」は最初から1巻完結と決まっていて描ききれなかったエピソードがたくさんありました。それに「あの震災を体験したからこそ描けるものがあるのでは?」という編集者さんの言葉に心が動きました。
というわけで皆さんのお手元に「リウーを待ちながら」があります。ありますよね…。キャラクター配置は一部そのままに、新たな要素をガンガン入れてスケールが少し大きくなりました。

ありがたい事によく誤解されるのですが、朱戸は医療関係者でも医療を勉強していた人間でもありません。追いつめられて本を読んで人に話を聞いて少しそちらに詳しくなった漫画家です。
取材をするまで取材のなんたるかが分かっていませんでした。でも目的のはっきりしている勉強ってとても面白い。やはり人間には知識欲みたいなモノがあるのです。
よく処女作には作家のすべてがつまっていると言います。朱戸は状況に追いつめられて「Final Phase」に辿り着きました。でも「Final Phase」には朱戸のすべてがつまっていました。
そして今、あの時に時間的にも技量的にもできなかった事を「リウーを待ちながら」につめています。
「リウーを待ちながら」を描くにあたっても、とてもたくさんの方にお世話になりました。微妙な内容の漫画になると分かっていながら取材に応じて下さった方々に本当に感謝しています。
「リウーを待ちながら」をよろしくお願いします。




テーマ:漫画 - ジャンル:アニメ・コミック
- 2017/06/23(金) 00:00:00|
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2016年7月22日に拙著「
インハンド 紐倉博士とまじめな右腕」の単行本が講談社より発売されます。相変わらず文章を書くのは苦手なのですが、なんとか覚え書きをでっち上げたいと思います。
途中、一部内容にふれていますので、未読の方は
「インハンド」第1話の無料試し読みを読まれてからこの記事を読んでいただくのが良いと思います。

前回の単行本「
ネメシスの杖 」の連載が終了した後、すぐに続編を描いてみてはというお話をいただきました。朱戸も思いがけず元気なキャラを描けたため妄想がふくらみつつあり、ぜひそうしたいですとお返事しました。
「ネメシスの杖」の連載終了から単行本発売まで2ヶ月あったので、単行本発売と同時に続編を始められるといいね、という話を担当の編集者さんとしていました。まったくなんと楽天的な!人生そんなに甘くないんですよ!
続編の「インハンド」の連載をはじめるまで2年半かかりました。

ストーリーという物は設定やプロット、キャラクターや演出など多くの要素によって形作られます。お話を作ることを職業にしている人間は、このすべての要素を一定以上のクオリティーで繰り出す事が求められます。一方で、当然ながら人によってそれらの要素の中にも得手不得手があります。
複雑なファアンタジー世界の設定から考え始める小説家、最後に観客をあっと言わせるオチがある面白いプロットをまず練る脚本家、すばらしい戦闘シーンの演出で誰をもを黙らせる監督………設定説明は長いけど読み始めると面白いファンタジー、主人公がかわいそうでフラストレーションがたまるけどオチがすごくて満足なミステリー、なんであのロケーションで戦わなきゃいけなかったか何度考えてもわからないけどすごいアクションでテンションンがあがったSF…もごもご。もちろんすべてをびっくりするクオリティーで作り上げ、この人には不得意な事なんて何もないんじゃないかという作家さんもたくさんいらっしゃいます。
一方、当り前ですが朱戸には不得手があります。
長年言われてきた事ですが、日本の漫画の連載で最も大事なのはキャラクターです。雑誌上で結末が見えない長い連載をする事が多い日本の漫画において、良いキャラクターはお話を勝手に動かし結末まで漫画家を導いてくれる、漫画家にとって必要不可欠な相棒です。長く活躍されている漫画家さんは泉のようにおもしろいキャラクターを産み出せる「キャラクターが得意」な方や、そのキャラクターが活躍しやすい「設定が得意」な方多いように思います。
で……賢明な読者の方は分かっていらっしゃると思いますが…朱戸はどちらかというと「プロットが得意」な人です。

プロットというのはザックリとしたお話の流れです。朱戸はいままでお話を考える時はまずプロットを考え、そのプロットに合いそうなキャラクターを放りこんでみるという手順を取って来ました。「インハンド」の第1話「
ディオニュソスの冠」のプロットは「新型感染症を多くの人に感染させた『患者ゼロ』を探したがその患者は発見時にはすでに殺されている、殺人犯が言うように感染症で他人を死においやった人間は裁かれるべきか」というものです。このプロットは2013年7月に最初に書いたメモから2016年3月に月刊アフタヌーン掲載される完成原稿まで変わりませんでした。そして朱戸はこの間、数えて26稿、重さにして3.3kgもの同じプロットのネーム(漫画のコマ割りセリフ等を簡単に書いた設計図のようなもの)を描き続けたのです。
問題はそう、キャラクターでした。キャラクターをまず考え、それをプロットに放りこむという、今までやった事のない作業が朱戸を苦しめたのです。
しかし今回に限ってはこれが正しい作業手順でした。なぜならば、「インハンド」は続編だからです。

「ネメシスの杖」のメインキャラクターの二人、阿里と紐倉のうち阿里を降板させ続編には出さない事は最初の打ち合わせで決まりました。これは彼女の職業が特殊で扱える案件の種類が少ないためです。また紐倉も寄生虫だけを扱う博士ではなく、別の案件も担当させようという事になりました。これも扱えるテーマの種類を増やすためです。
というわけで、新しい紐倉の相方を考える事になった朱戸、なるべくいろんな案件が扱えて〜使い勝手のいい〜長く連載できるような〜…、などと考えているうちに迷走が始まりました。なかなか紐倉の相方が決まらなかった原因は簡単、紐倉です。
紐倉はキャラクターが超得意!というわけではない朱戸の脳内になぜか現れた強力なキャラクターです。彼は頭がよく、見た目もよく、超お金持ちで…つまりなんでも持っています。ないのは右腕くらいです。彼の相方は紐倉の欠点を補うような相手が良いのですが、紐倉にあまり欠点がないので相方のキャラクターが立ちにくいのです。真面目ながんばりやさんの女性のキャラクターは阿里で使ってしまいました。そもそも紐倉というキャラクターを考えた時は、彼が違う相手とコンビを組む可能性など全く考えていなかったのです。先見の明がないですね…ホント。さてどうする!?それでは朱戸先生の迷走を御覧ください。
相方候補1
本条ユキ:警視庁捜査一課のやり手だったが、ミスをおかして内閣情報調査室健康管理部門に出向になる。

ボツ理由:阿里に似ている。
全くその通り、朱戸はなんとアホなのでしょう。
相方候補2
高家春馬(初代):警察庁のやり手だったが、ミスをおかして内閣情報調査室健康管理部門に出向になる。

ボツ理由:なんかくたびれてて読んでてつらい。
これは朱戸がキャリア官僚の方々の資料を読みすぎたせいです。リアルなキャリア官僚さんたちのように鬼のように働いている上に、気まぐれの天才のお伴をしていては主人公がくたびれ、読んでる方も疲れちゃうに決まっています。
というわけで今回の高家春馬(二代目)が登場しました。

彼が身長が低めで首が太く額が後退気味なのは当初、某F1ドライバーを元にしてキャラクターデザインしたためです。
二代目高家はこれまでの2人の相方と違い、紐倉に仕事を持ってくるポジションではありません。その役目を牧野に託した事で高家の職業に自由がきくようになり、医者という職業をキャラクターに与える事ができました。結局「ネメシスの杖」で阿里がしめていた「紐倉に仕事を持ってくる相方」というポジションに朱戸は勝手にしばられていたわけです。
穏やかで暖かくスネに傷を持ち、時にカッとする二代目高家は、朱戸がやっと辿り着いた紐倉の相方でした。1話のネームが完成したとき、最初にプロットを書いてから約2年の歳月が経っていました。

漫画家になろうと思うような人間は誰しも最初は「自分は何でも描ける漫画家になる!」と思うはずです。しかし残念ながら多くの人間は漫画を描いていく過程で「自分には得意なものと不得意なものがあり、自分はなんでも描ける訳ではない」という事に気付くわけです。得意な分野をしっかりのばすか、不得意な新しい分野に努力して踏み出すか、限界を突破する方法はいろいろあるでしょう。今回の朱戸の「キャラクターから考える」という挑戦が果たして朱戸のためになったのか、それは漫画家人生が終わるまでわかりません。確かな事は、辿り着いた高家春馬は紐倉哲と一緒にお話を動かしてくれる良いキャラクターになったという事です。
「インハンド」を手に取って下さる皆様が二人の活躍を楽しんでいただける事を切に願っています。
最後になりましたが、朱戸の迷走に長々とつきあっていただきました編集者の皆様、なかなか報酬が発生しないにもかかわらずすべてのネームに目を通し的確な意見をくれた医療監修のヨシザワさん、そして支えてくれた家族に感謝をしたいです。
かなりの難産だったかわいい我が子です。
「
インハンド 紐倉博士とまじめな右腕」をどうぞよろしくお願いします。
7/22日発売!
インハンド 紐倉博士とまじめな右腕 (アフタヌーンKC)
ネメシスの杖 (アフタヌーンKC)
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- 2016/07/20(水) 08:00:00|
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2013年9月20日に拙著「
ネメシスの杖
」の単行本が講談社より発売されます。せっかくなので多少、覚え書きを残しておきたいと思います。
なお作中に出てくるシャーガス病についてご興味のある方は下記のエントリを御覧下さい。
シャーガス病についてシャーガス病について その2
自分が何に向いているのか、なかなか自分ではわからないものです。担当編集者さんから、また医療モノをやらないかというご提案を受けたとき、朱戸は正直、また医療モノかぁと思いました。
ちょうどその時は、それまで1年近く作業していた企画が権利関係が上手く行かずにペンディングになっていた頃で、ちょっとヒマだった朱戸はピアニストが主人公のホラーっぽいネームを勝手に描いて全ボツをくらったりしていました。
朱戸はそもそも医療モノが好きなわけではありません。特に病院を舞台にした医療モノはとてもデリケートにあつかわなければいけないポイントがたくさんあり、そちらに労力を注ぐのは嫌だなぁと思っていました。以前描いた「
Final Phase
」は、都心の湾岸地域の埋め立て地がアウトブレイクにより隔離されるという話で、日常的な医療の描写はほぼなくこのあたりのポイントを回避しています。このあたりの懸念を担当編集者さんにお話して、確かにそうですね、と言っていただいたのですが、編集者さんは同時に「Final Phase」をとっても褒めてくれたのでした。曰く、なかなか調べものをして漫画に落とし込める人はいない、医療関係の知り合いがいるのは強みだ、医療漫画をかくべきだ。そうなのか?朱戸が進むべきはこっちなのか?
まあ冷静に考えれば、医療モノだからといって病院を舞台にしなきゃいけないわけではありません。ジャンルは漫画の本質ではなく、どんなジャンルでも描きたい漫画をかけばいいわけです。調べものをして漫画を描けるというのが朱戸の強みで、他に特に取り柄もないのならやるしかないなーと思っていた時、ふと以前考えていた感染症を使った復讐モノの事を思い出しました。これじゃね?朱戸が今描くべきなのは?その話を担当編集者さんに少し話してみたら割と盛り上がりました。やはり…。
こうして朱戸はまんまと2作目の医療モノを描いてみる事になりました。その瞬間はまだペンディング中の企画は生きていたため(後に正式に企画はなくなる事になりました)、それが再開する事も考えて半年のスパンで連載する企画を作る事になりました。

感染症を使った復讐モノを以前から考えていた、といっても、感染症を使った復讐モノとかおもしろそうだな〜(まんま)と思っていただけで、何の感染症なのか、誰が何に復讐するのか、主人公は誰なのかなどは全く決まっていませんでした。まずは「Final Phase」の時にに医療監修をお願いしたヨシザワアキラさんにまた医療監修をお願いし快く、引き受けていただきました。その上で何冊か本を読み、ネタになりそうな感染症を探しました。
今回「ネメシスの杖」で出てくる感染症は
「シャーガス病」という病気です。朱戸はこの病気を、「Final Phase」の時はウイルスをネタにしたから、今回は病原体の中でも大きな寄生虫にしよー、という緩い気持ちで読んでいた寄生虫の本で知りました。日本であまり知られていないこと、感染経路がとても興味深い事、症状がとても怖い事などが今回の復讐モノにぴったりでした。
というわけで「ネメシスの杖」は寄生虫モノになりました。寄生虫モノということで、寄生虫学者と、事件を追うキャラが出てくる事が決まりました。以前から気になっていた不作為の罪と、シャーガス病の感染経路を合わせて事件の概要を作り、アトピー持ちだった朱戸の経験をふまえてアレルギーネタを仕込みました。ヨシザワさんと目黒の寄生虫博物館に行ったり、熱帯植物園にいったり、厚労省に行って写真を撮っていたら警備員さんに怒られたりしながらキャラクターのイメージを固めました。ヨシザワさんは日本語の文献が少ない中とても丁寧にシャーガス病について調べてくれました。(ヨシザワさんは一度ブラジルの製薬会社にメールを出して薬の製造状況について確認を取ってくれました。)

一番最初にかいた紐倉と阿里のラフ。どっちも本編よりやわらかい表情をしていますね…。
そんなこんなで出来上がった1話分のネームと全体のプロット、キャラ表を担当編集者さんに見せたらほぼ一発でOKが、編集長さんからも一発でOKをもらい、3話分のネームの描きためをもちつつ連載がスタートしました。上手く行くときは上手く行くものです。いったいいままで何本のネームが…ぶつぶつ。

つまり自分が何に向いているのか、なかなか自分ではわからない、という話です。
きっと天才は自分の進むべき道がビシっと見えるのでしょう。道なんか見ないか…自分の後に道が出来ていたとかでしょうかね。しかし朱戸は天才じゃないわけです。
自分では未だに半信半疑ですが、いろいろな方の助言のおかげでで少なくとも現時点では朱戸は正しい方向へ進めているようです。朱戸は勉強よりは昼寝が好きですが、漫画というゴールがあれば本を山ほど読むのも苦ではありません。全然関係ないいくつかのジャンルの調べものが不思議とつながりを持ち、ストーリーにつながって行く瞬間は本当に最高です。
自分が何に向いているのか分かるというのは幸せな事です。それは同時に自分が何に向いていないかが分かるという苦行でもありますが、進むべき方向が分かるというのは何の目標物もない大海原にぽつんといるよりはましです。だってその方向に向かって漕げばいいわけですからね。
あっ!あそこに島がっ!
蜃気楼ではなく、島でもなく、大陸だといいなと思っています。
朱戸の灯台となってくださっているすべての人に感謝を。
「ネメシスの杖」をよろしくお願いします。

ネメシスの杖 (アフタヌーンKC)
テーマ:漫画 - ジャンル:アニメ・コミック
- 2013/09/18(水) 20:24:13|
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「
九段坂下クロニクル
についての覚え書き/後半」
(
前半よりつづく)
こうして時空を移動するという設定もページ数も削らなければいけなくなった私は、結局「探偵」「探偵助手」「泥棒」のお三方にご退場いただくこととなりました。では誰が主人公になったのかというと「探偵事務所に依頼に来た依頼人」です。私は提出した3本の「想ひ出盗人」のネームのなかに3人の依頼人を登場させていました。3人はそれぞれ「現在」「戦中」「昭和初期」の記憶を盗まれていました。他の方々の漫画と時代がかぶらない方がいいということで、そのなかの「戦中」の記憶の持ち主、幸子さんに主人公になっていただくことになりました。
九段坂下クロニクル「此処へ」より。幸子、殿村、速水、次郎、九段下の景色、錦鯉。
正直に告白すると、戦中の話を描く事が決まったときは嫌だなあと思いました。絵柄が地味だし、つらいし、もんぺをはいた女子はいまいちかわいくないし、こんなことを言ったらしかられるし、そもそもたいして詳しくもない私なんかが描いたら物知りな方々につっこまれまくるのでは、と考えたのです。しかしビビって描かずに聖域にしてしまうよりはツッコまれながらも描いた方がずっと価値があるだろうと思い直しました。
ともかくまずは知る事だと思い戦争体験記を随分読みました。そうすると、いままで私が持っていた戦中のイメージは固定観念にとらわれすぎていたということがわかってきました。考えてみればあたりまえだったのですが、人々の体験は大変バラエティーにとんでいたのです。自作の鉱石ラジオでこっそり米軍のラジオのジャズを聞いている人もいれば、特攻隊の基地でお茶を点てる人もいる。おはぎやワッフルを食べている人もいれば、お米をチケット代わりにベートーベンやモーツァルト(ドイツの音楽なので敵性音楽ではない)をひいている人もいる。ちなみに当時の女性の多くも、もんぺはやだなあと思っていたみたいです。
そして私にとっていちばんの驚きは玉音放送でした。しばしば戦争体験記では、何の説明もなくいきなり玉音放送を聞いたため内容をさっぱり理解できず(そもそも声の主が誰かもわからず)、その後にあったNHKのアナウンサーの解説で初めて日本が戦争に負けたことが理解できた。というような記述が出てきます。だったらそのNHKのアナウンサーの解説を聞いてみたい。という事で、ネットでそれをさがして聞いてびっくり。和田信賢アナウンサーの声は私がよく知っているNHKのアナウンサーの方々の声と驚くほど似ていたのです。放送局ごとにアナウンサーの声は特徴がありますが、ここまで完璧に代々受け継いできたものだったとは。しかも聞き取りやすいだけでなく内容もわかりやすい。1945年が急に近くなった瞬間でした。
というわけで、色々な人がいたわけですし、はるか昔の話でもないのだから考えすぎないぞ、とひらきなおった私は、幸子という主人公に好き勝手にやらせることにしました。
幸子は戦争中にもかかわらず個人の幸せを求める女性です。個人の幸福と国家、社会、家族等の公共性との兼ね合いは現代において明快な答えのない複雑な問題です。もし幸子が現代にいたとしてもある種の批判はまぬがれないでしょう。そんな彼女が戦中にいる、つまり個人の幸福と国家、社会、家族等の公共性との兼ね合いに明快な答えがあたえられている時代に彼女を生かす、この事がこの物語の最も大きな魅力であり困難でした。しかし彼女はほっておいても好き勝手やってくれました。
巻末の植田実先生のビルについての解説にもある通り、九段坂下の例のビルは関東大震災後に復興の一環として計画され、太平洋戦争を生抜きました。運命をすべて自分で切り開いてきたと思っている幸子がビルとともに叶わない運命に取り残されたとき、彼女はどうするのか。
そもそものネームの「想ひ出盗人」に出てきた幸子は幸せを求めつづけたために最後まで幸せにはなれませんでした。しかし「此処へ」の中の幸子には可能性があたえられています。
最後の数ページの台詞が決まったとき、私は彼女が可能性をつかんだことに気づきました。今はただ「現在だろうが過去だろうがあたしは幸せになるのよ。」と騒ぎだしそうな彼女に敬服するのみです。
- 2009/11/28(土) 18:28:00|
- 長文
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2009年11月30日に「
九段坂下クロニクル
(
一色登希彦・
元町夏央・朱戸アオ・
大瑛ユキオ共著)」が小学館より発売されます。実在する築80年以上のビルを舞台にしたオムニバスコミックスです。私、朱戸はこの中の「此処へ」という戦中、戦後にかけてのこのビルを舞台にしたの漫画をかいています。
このオムニバスコミックスは、そもそもの発端から発売まで2年以上の月日がたっています。その間に「此処へ」にも紆余曲折がありました。漫画は本来結果のみであるべきで、過程を述べる事が出来るのはものすごく偉い人だけの特権だと知ってはいますが、なにせ共著であっても初単行本です。ちょっと書いてみてもいいでしょうか?そういえばブログはテキスト打ちとかしたほうがインタネットのアーキテクチャ的にいいっすよ、と賢い方々も本で言っていましたし。
月刊IKKIのイキマン単行本描きおろし部門投稿時原稿
「九段坂下クロニクルについての覚え書き/前半」
そもそもの発端は、と書こうとして、昔の手帳を掘りだしてみたり電池の膨らんだ古い携帯を充電してメールをコツコツ見たりしたのですが無駄でした。ともかく2007年の春から夏前にかけて、「九段坂下クロニクル」の企画がもちあがりました。月刊IKKIのイキマン単行本描きおろし部門の第一回応募に漫画家数人でオムニバスコミックを投稿しよう、というワンダフルな計画を私の師匠である一色登希彦先生が思いついたのです。九段坂下のビルを共通の舞台にするということだけが縛りのめちゃくちゃ楽しそうなアンソロジー本の企画でした。九段坂下の例のビルにお邪魔したこともあり、大学時代にこっそり建築を専攻していた私は「築80年以上のビルを舞台にしたオムニバスコミック」という設定に知恵熱が出たような気がするくらいもりあがりました。
そのとき私が思いついたネタは二つ。一つは現代、九段坂下のビルに立てこもった銀行強盗と警視庁特殊急襲部隊(SAT)との対決もので、SATが突入経路を検討しているとだんだんとビルの構造や時間とともに起こった変化などが分かる、というもの。もう一つは、ビルが建ったのが昭和初期なので、なんとなく江戸川乱歩的な帝都東京を舞台にした話、という大雑把なアイディアでした。この二つのネタを一色登希彦先生に話したところ、江戸川乱歩的な帝都東京を舞台にした話、という大雑把な方を推される事となりました。
江戸川乱歩は小学生のころ少年探偵団シリーズを随分読みましたが、これを機会にと久しぶりな少年探偵団からちょっとぶりの芋虫まで楽しく乱読しました。煉瓦塀にかこまれた薄暗い洋館や裏通りのカフェーには妄想スイッチを入れる何かがあります。そしてなんといっても、しょっちゅう何かをズバっと言い当てる明智探偵や、やたら女装が似合う小林探偵助手、きっと手間ひまかかったたであろう変なメカや変装とともにあらわれる怪人二十面相は最強の物語エンジンです。やはり「探偵」「探偵助手」「泥棒」にご登場いただこう。しかも九段坂下のあのビルにはにそれらが似合うだろう、と私は妄想しました。
こうしてイキマン単行本描きおろし部門に投稿した「想ひ出盗人」のネームが出来上がりました。九段坂下のビルを舞台に時空を行き来して「想い出」を盗む泥棒と、それを取り戻そうとする探偵と探偵助手の話です。泥棒が盗む「想い出」は九段坂下のビルにかかわるものばかりです。その「想い出」を盗まれると、人は九段坂下のビルへの愛情を失ってしまいます。現実(ハード)と記憶(ソフト)の永遠性とのかかわりをテーマに、ビルという場所を固定し話ごとに違う時代に飛んで時間的に話を広げるというコンセプトのネームでした。
「想ひ出盗人」のラフ
投稿の結果、他の方々のネームが素晴らしかったこともあり、すぐにとはいかないものの編集者さんと共にネームを直し本にしていこうということになりました。しかしここでたくさんの問題が主に私のネームまわりに発生しました。まず私のネームは妄想が暴走しすぎたため、最終的に30P×3話、つまりトータルで90Pになっていました。しかし普通の単行本はだいたい200Pほど、4人でアンソロジー本を出すとすると200÷4で1人50Pとなります。明らかに一番ペーペーな私のページ数だけ他の方より多い。しかも、4人の描いた漫画の時代がばらけさせることによって、私が1人でやろうとしていた「ビルという場所を固定し話ごとに違う時代に飛んで時間的に話を広げるというコンセプト」を本それ自体が持つという企画になったのです。
こうして私のネームは、キャラクター名等の乱歩ネタだけを残し、投稿時とは全く違う形へと変身することとなりました。
(
後半につづく)
- 2009/11/27(金) 18:12:00|
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